「記録する」ということ

記録することの意味

おそらく、今生きている人が何かを記述すること、特に日々の生活や、日々感じたことなどを書くことには、(有名人ならば別だが)資料としてたいした意味は無いだろう。読む価値も無ければ、読ませる価値も無い。
しかし、こうしたどうでもよい落書きのような記録が、何十年、何百年先に、とても重要な意味のあるものになるかも知れない。現に、歴史的な発見として発掘されたようなものの多くは、当時の人にとってはどうでもよいものだった。場合によっては、ゴミだった。それを、何百年も先の私たちが大事にして、ものによっては博物館のガラスケースに入れて崇め奉っているなど、想像もされていなかっただろう。
近年、ブログを中心として、多くの情報が氾濫している。その多くは、書いた人の自己満足のような中身である。しかし、そのいずれにおいても、未来においては、たいへん値打ちのあるものになっているかも知れない。少なくとも、その可能性は否定できない。

語られることと記録されること

今起きていることは、今生きている人から聴くことができる。それゆえ、書いているものを読むよりも、生きている人に聴いた方が手っ取り早い。しかし、今語っている人たちが死んだ後は、それらを聴くことはできない。しかし、書かれた記録は読むことができ、その記録から、その時代を知ることができる。
そして私たちは、そういった記録を基に、人類の歴史を学んできた。
記録するという行為には、それだけの意味がある。
語る人は消え、語られた記憶もいずれ消えるが、記録は消えない。

将来の自分への手紙

また、記録しておくことは、あの頃あんなことを考えていたのだという、将来の自分への手紙でもある。
書いたときに読むのと、後から忘れかけた頃に読むのとでは、同じ文章でもまったく別物に思えてくることは珍しくない。中には、あの時どうしてあんな馬鹿馬鹿しいことを考えていたのか、思い悩んでいたのかと、呆れてしまうこともある。
書いたときの気持ちで書くことは、その時にしかできない。

捏造される歴史への抵抗

未来から見て、今起きていることは、そのまま語られているとは限らないし、むしろ、その時に生きている人たちにとって、都合良く語られることが多い。
政治的勝者と敗者がいた場合、勝者にとって都合の良い物語として、敗者は悪者として描かれる(例えば、徳川家康と石田三成との関係)。しかし、その敗者には敗者なりの思い・言い分があったはずだ。その言い分の方が、筋が通っていたかも知れない。
その時は敗者となり、場合によっては発言する機会すら奪われていたかも知れないが、その頃の記録が残っていることで、後の歴史がその正当性を認めてくれるかも知れない。
物語としての歴史は書き換えられ、捏造されることがあっても、一次資料としての記録は、捏造できない。したがって、記録することは、将来において捏造されることへの予防線でもあり、抵抗でもある。