音の出る信号

悲しいニュース

悲しいことに、東京で視覚障害の男性が横断歩道を渡っている際、車にはねられて死亡するという事故があった。
現場を見ていないが、現場には信号があり、男性が横断していたのは赤信号だったらしい。

増えてきてはいる、が…

音の出る信号は増えているものの、まだまだ限られた箇所にしか設置されていないし、あったとしても、音が鳴る時間が限られているものが多い。
今回の事故現場も、音の鳴る時間が限られていたとのこと。
良くある話だが、朝8時頃から夕方6時頃まで音が出ているが、それを必要としている視覚障害者が通勤するのが朝7時で、帰宅するのが夜9時で、ほとんど役に立っていないという皮肉だ。
今回の現場も、それに似た状況だったと聞く。

身勝手で無責任な人たち

音の出る信号を設置する際の最大の障壁は、周辺住民だ。
交差点の周辺住民とやらが、音の出る信号はうるさいからやめろ、つけるなら昼間だけにしろと文句を言ってきて、仕方なく設置を諦めるか、時間を短縮するかの選択を迫られている。
つまり、信号に音が無い原因は、信号を管理する警察ではなく、文句を言う周辺住民なる存在にある。

“他人事”という思考

さて、ここで周辺住民なる存在について考えてみる。
その周辺住民とは、信号からどの程度の距離までを言うのか?
その周辺住民とやらに視覚障害者は含まれていないのか?
また、そもそも信号は周辺住民のためのものなのか?
周辺住民とやらは、自分がその信号の所有者であるかのように勘違いしているようだが、信号機の所有権などその周辺住民とやらには無い。(ウソだと思うなら法務局に行って登記簿を見たらいい)
次に、周辺住民とやらも、信号を利用しているはずだ。
そして、目が見えなくなるということ、つまり、音の出る信号を必要とする状態になることは、誰にでもあり得る。
その文句を言っている周辺住民とやらが、本人またはその家族が、将来目が見えなくなったときに、同じことが言えるのだろうか?
おそらく、「どうして音の出る信号を作らないんだ」と、真っ先に文句を言うのではなかろうか?

とても簡単で基本的だが、理解されていないこと。

障害を理解するための基本事項

私が授業で必ず話すことがある。
それは、障害者の問題は“他人事”ではない、ということだ。
障害の種類や、いつ障害者になるかにかかわらず、共通することが二つある。
ひとつめは、誰もなりたくてなっていない、ということ。
ふたつめは、誰がなるか分からない、ということ。
「将来の夢は障害者になることです!」と笑顔で言う子がいるだろうか?
これは、現に障害者として生きている人たちも同じことだ。
誰もなりたくてなったわけじゃない。でも、なってしまった。
また、例えば事故で障害者になってしまった人もいるが、自分が事故に遭って障害者になると分かっていたら、その時その場所へは行かないだろう。
数秒ずれていたら、事故に遭うことはなく、元気でいられたかも知れないという話は、何人もの人から聞いたことだ。
生まれつき障害のある子が生まれてくる可能性も、どこの家にもある。

誰にでも関係すること

つまり、障害者の問題は、一部の人たちの問題ではないし、他人事でもない、自分に身近な問題であることを自覚しなければならない。
音の出る信号だけではないが、その地域が自分の領地であるかのようにふるまう連中は、所詮“他人事”という固定観念から抜け出せていないだけだ。
身勝手で未熟な思考と言う他ない。
音の出る信号に反対する周辺住民とやらは、事故の最大の加害者であることを自覚せよ。